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最近のエントリーはツイッタ絡みが多いですが、とりあえずまだおもろい。フォローする人を自分の好みで選べば、いい感じのタイムラインを作れるのが魅力かな。

ツイッタはただのインフラで、プラットフォームで、そこにどんな情報を載せるかは自分次第。「あなたのツイッタと私のツイッタは違う」わけで、ツイッタがおもしろいかどうかは、自分がおもしろいフォローをできるかどうかにも拠るわけです。

というわけで、自分的名言 via Twitter Part2。

“間違いを犯す自由が含まれていないのであれば、自由は持つに値しない。” ガンジー

“間違いを犯したことのない人というのは、何も新しいことをしていない人のことだ。” アインシュタイン

“はっきり言えば、原理主義やリージョナリズムに対抗できるだけの物語を書かなければいけないと思います。” 村上春樹

“アウトプットは量多い方がいい。フィルタは各自がやればいい。この原則わかんない奴はインターネット合わないと思う。” id:marco11

“人間は自分の考えを翻すことに抵抗する性質があるという。考え(アイデア)を人に話す、絵にするなど一度外に出せば考えは一度「他人事」となり、他人の意見を受け入れやすくなる” id:msk_masaki


最後のなんかは「そーだよなー」って感じ。ここで本音に近いアウトプットができてなかったら、もっと、他人に対して否定的な人になってると思う。

自分のメディア(情報発信ツール)を持ち、自分の意見を外に出せる。誰も聞いてないとしても、自分の思いを伝えた気になれる。

他人の意見を受け入れられる人になるためには、自分の意見をどこかで言わなくてはならないんだよ。自分の意見を言わずに他人の意見を聞いてるだけだったら、自分が自分じゃなくなっちゃうから。

自分が自分のままでいて、他人を他人として認めるためにブログを書く。

…なんか、理想的な話でまとまったな。

2009.10.10 _
鳩山さんの就任会見で、ネットメディアなどが締め出された件で、ダンさんイイこと言ってました。ダンさんのブログは時々こういう珠玉のエントリーがあるからなぁ↑以下、引用・編集して紹介。

(太字・省略は引用者による)
クローズドな環境でものをいうのが、努力。そこに内輪しかいなければ、たとえうまく行かなくとも、努力していれば「仕方がない」と許してもらえる。オープンにするというのは、思い通りに行かないことを受け入れること。

成功して当たり前の時代から、失敗して当たり前の時代へ。

そういう時代にうまくやっていくには、「以下に速く失敗し、以下に早く反省するか」しかない。なぜオープンなのか。その方が速く失敗し、早く反省できるからだ。「うまいやり方」がはじめから分かっているのであれば、クローズにして「ノイズ」を減らした方がいいに決まっているではないか。

有権者が「失敗許すまじ」一辺倒だとしたら、政府の態度もまた元の木阿弥だろう。

なぜオープンに抵抗があるかといえば、「とちり」が怖いから。なぜオープンにするべきかといえば、「とちり」恐怖症を克服するべきだから。私が「あの」公約反故を他の公約反故より気にするのは、結局「とちり」を許さない国民に、「とちらない」ことで答えようとする政府が変わらないと感じたから。

お互い、「とちる」ことにもっと慣れる必要があるのだ。

政治家に限らず、自ら語り、自ら正すことが当たり前となる時代に、「正しい答え」テンプレートにそった言葉しかもたぬ者は不要を通り越して有害である。政府の間違いが政府にしか直せないのであれば、民主主義は不要を通り越して無駄である。

なぜオープンなのか?

速やかに間違い、速やかに直すためだ。

それだけのことである。:Why Open?


これと同じ話なんだけど、就任会見で鳩山さんが「試行錯誤の中で失敗することもあろうかと思うが、国民には寛容であってほしい」と言ったことに対する批判が多かった。「最初から失敗するかも、なんて何事か!国政を預かる立場にある人が言うべきことではない」という批判だ。

ナンセンス。

そんなことが言えるのは、世の中には正しい答えがあり、それを間違いなく実行できると純粋無垢(ナイーブ)に信じている人だけだ。やってみなきゃ、成功するかどうかなんてわからない。

早く失敗して、早く修正する。

すぐにでも、これが私たちの新しい常識にならなくてはならない。

誰もブログに書く必要がないくらいに。

2009.09.19 _
反省を込めて、自分のツイッタから転載。

携帯でモバツイッターを操作してたら、あるつぶやきを削除してしまった。「ながら」で携帯を触ってたので何の記事を消したかもわからない。他人にとっては取るに足りないつぶやきだが、自分自身の「ひとかけら」を消してしまった感覚になった。

人は、自分が考えたことでも忘れてしまう。それほど悲しく、楽観的な生き物だ。だから私は、文字で残そうとするのだろう。その残した文字は「自分の輪郭」をはっきりさせてくれるものだと感じるからだ。消してしまったつぶやきは、幸いにもオフライン作業でPCのキャッシュから復元できた。

ということで、3つ前の記事は9/6にポストしたのを復元したものである。くり返しになるが、こういったつぶやきは後で見ることに価値がある。自分の思考を追体験できるからだ。ツイッターのログを残す方法はデフォルトでは用意されていない。何かしら用意しようと思った今日の夜である 。


Never again...

(追記)
「いいなぁ」と思ってたサービスが、新規登録を再開していました。最初、人が集中しすぎて停止してたんだココ。自動で記録してくれるようだし、csv, xmlの形式でローカルにも保存できます。これでおK。

➤➤ twilog
http://twilog.org/

2009.09.11 _
銃夢(Gunnm)Last Order (6) (ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ)最近はまったマンガの紹介。同僚の先生に借りて読んだんだけど、スゴクおもしろくて!今まで読んだ中で5本の指に入るくらいの高評価で、星5つ★★★★★

タイトルは『銃夢』、そして、続編の『銃夢 Last Order』。

ウルトラジャンプで連載中のSF格闘もの。脳だけが生身で、体がサイボーグの主人公ガリィが、自分のルーツを知るために、そして世界の仕組みを知るために戦い続けます。

物語が進むにつれて、舞台は地上のクズ鉄町から、それを管理している空中都市ザレム、さらにそれを支配しているイェールと変わっていきます。

最先端の科学用語を使い、もしくは最先端の先の用語を創造し、過剰に説明された世界は、SF好きにはたまらない舞台設定。

かつ、ストーリーもいいんだよね。この筆者はきちんと「哲学」を持っています。

この世界では、脳以外を全て「機械の体」にしたり、もしくは脳さえも「脳チップ」に置き換えられます。

「人間とは?」と自分に問いかけ、それに対する何らかの答えを持っていなければ、こうしたマンガは描けないでしょう。


マッドサイエンティストが「君にとっての人間の定義とは?」と問いかけ、「肉体や脳が機械と交換可能であるならば、人間を人間たらしめているのは、"人格"と"記憶"という情報だけです。」と自ら答える。

たしかに、そうかもしれない。しかし、そういった科学者の人間の定義だけではなく、私たち生活者の実感というのも別にあって、それを含めなければ「哲学」にはならない。



こうしてマッドサイエンティストや主人公の口を通して、また舞台設定やストーリーを通して語られる筆者の人間観が優れているから、このマンガには魅力があるんだと思います。

矛盾や葛藤に背を向けた時、人は自分を見失う。
「人間」とは…たえまなく揺れ動くある「状態」にすぎない


こういう言い方、よくわかります。

2009.08.08 _
人って、他人を「型にはめて」理解しようとします。その典型なのが血液型だよね。血液型で人を区別するなんて無茶にも程があるんだけど、本気でそう思っている人はいるし、そういう話題にはよくなります。

きっと、ホントかウソかじゃないんだよね。他人という未知のものを型にはめないと安心できないという理由から、なんだと思います。雑談として話しやすいからってのもあると思うけど。

ちなみに、日本の血液型の割合は、A(40%), O(30%), B(20%), AB(10%) で、イギリスは(40%, 45%, 10%, 5%)です。この割合は国によって違うんだけど、日本の血液型の「4:3:2:1」っていう比率の良さが、"血液型のストーリー"に多少の信憑性を持たせてるんだろうなぁ↓

型にはめるのは仕方ないとして、もっと他にないのかね?と、大学生の私は考えていました。その時、参考にしたのが岡田斗司夫がSPAで連載していた『人生の取扱説明書』(連載記事へ)。岡田さんは、人を「軍人・王様・職人・学者」の4タイプに分けてるんだけど、私はそれを元にしてこんな図を作っていました。

論理感情


で、昔の私は、自分はこのタイプだとか、あの人はこのタイプだとか当てはめて、人を分かった気になっていたわけです。

例えば、自分は内向的で論理的だから学者タイプかなと思うし、嫁は外交的で感情的だから芸能人タイプかなと思います。

もちろん、外向的、論理的であることが「プラスの価値」というわけではなくて、相対的に、他人と比べると、という「ただの比較」を示した図です。(夫婦って対角線の正反対に位置している方がいいのかも、とか考えたり。)

Anyway。かつて、ただ暗闇の中にいた自分は、こういう表を作ることによって、ある程度の安心と行動力を手に入れたのでした。今は、そういう当てはめをすることはないんだけど、思春期だった自分には、人をはかるモノサシとして役に立っていました。



また、「設定する基準」を変えると、次のようにも書けます。使った「対比軸」は、次の2つ。

1.人間が根源的に感じる喜びである(だろう)「承認」と「勝利」。
2.その価値判断の主体となる「自分」と「他人」。
自分他人


この2つの基準をクロスさせると、上の図のようになります。そして、自分や他人がこの図のどの位置にいるかを分析すると、その人のタイプが視覚的にわかる(気になる)わけです。

というわけで、私なりの人間タイプ論。最初はね、こうやって型にはめて考えてもいいんだと思うんです。その内、こんな型に頼らなくても他人のことがわかってくるから。

ちなみに、私はここ5年以上は人間関係で悩んだことはありません。それは、この型があるからではなくて、こんな型を作るに至るほど、悩み、考え、葛藤してきた時間があったから。私にはそういった「負の遺産」があるから、今、それほど苦労していないんだと思います。

感情が動くって人間らしいことだし、悩むことは悪くないんだけど、心が揺れすぎて苦しい時はあるからね。そんな時の処方箋にならないかな、なんて思います。

2009.05.01 _
風の谷のナウシカ 5 (アニメージュコミックスワイド判)風の谷のナウシカを初めて見たのはテレビだった。生物が死に絶えた灰色の街で始まるオープニングから、オームの大群に身を投じるエンディングまで、私は目を離せなかった。

可憐な少女が空を舞い、巨大なオームを手なずける。蟲にも軍隊にもひるむことなく、ただひたすらに自分の道を行く。強さと優しさを持ち合わせたナウシカは、私の理想のヒロインだった。

小学生の時、寄せ書きで求められた好きな女性のタイプに、ナウシカと書いた。高校生の時、教室に入ってきた羽虫を手で取り、何を気にすることもなく窓から逃がした子に恋をした。

宮崎駿は、ナウシカに堤中納言物語の虫愛ずる姫君を重ねて見ていたという。そんな、何かに束縛されることなく感性のままに自分を動かせる人に、私は心惹かれる。



人間の意志さて、今回は漫画のナウシカの話である。アニメのナウシカは、ナウシカという物語の一部分でしかない。腐海(毒の森)は、大地の有毒物質を結晶化して、無害なものに変える。そして、その腐海を守るために存在するオームと蟲たち。アニメで描かれているのはここまでだ。しかし、話には続きがある。

旅の途中、ナウシカは、人間の体が腐海の毒に合わせて作り変えられ、その体では浄化された後の世界では生きられないことを知る。そして、腐海の浄化システムは自然に生まれたものではなく、旧世界の人間が作り出したものであることに気づき始める。

闇の中の光ナウシカは、隠された事実を確かめるために、墓所の奥深く、不死の生命「墓所の主」と対峙する。

ナウシカ:「なぜ真実を語らない。汚染した大地と生物を全て取りかえる計画なのだと!」

墓所の主:「清浄な世界が回復した時、汚染に適応した人間を元に戻す技術もここに記されてある。交代はゆるやかに行われるはずだ。永い浄化の時は過ぎ去り、人類はおだやかな種族として新たな世界の一部となるだろう。」

ナウシカ:「絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない。その人達はなぜ気づかなかったのだろう。清浄と汚濁こそ生命だということに。」

墓所の主:「人類は私なしには亡びる。お前達はその朝をこえることはできない。お前は危険な闇だ。生命は光だ。」

ナウシカ:「ちがう!いのちは闇の中のまたたく光だ!」

ナウシカは、墓所の主の言い分に惑わされることはなかった。自らが名を与えた巨神兵オーマを呼び、墓所を破壊する。

その時、ナウシカは、清浄な世界に戻った時の人間の卵を見つける。凶暴性がなく、おだやかで賢い人間になるはずの卵である。ナウシカが予感した通り、人間を含めた今の生態系は、完全に滅ぼされる予定だった。

すべてを無に帰し、墓所の血を浴びたナウシカの服は、オームの血よりも青かった。「オームの体液と墓のそれが同じだった」ことは自分の胸の内にしまい、星にすべてを託して生きることを心に決め、物語は幕を閉じる。



風の谷のナウシカ 6 (アニメージュコミックスワイド判)読み終えた後、私はこの物語を消化できないでいた。確信のない不安な思いは、しばらく消えることはなかった。これで良かったのだろうかという疑念が私を覆い、気持ちは晴れなかった。

当時、私は墓所の主を完全に否定することができなかった。すべてを破壊すると決めたナウシカは、感情的になっているだけなのではないか、とも思った。

墓所の主が言うことには理屈があると思ったし、科学なしに人類を救えるとも思えなかった。巨神兵が人間の卵をつぶした時、今でも覚えているが、私はもったいないと感じてしまった。

世界を憂う思いは、時に、人を極端へと走らせる。私も、世界を変える起死回生の何かを期待していたのかもしれない。

ナウシカは、私が当然と信じて疑わなかった理性と科学を否定した。墓所の主の正義を否定し、そして、悪を引き受けた。私には、その覚悟がなかったのだろう。

風の谷のナウシカは、単なる自然賛美の物語ではない。物語に流れているのは、理性と科学、そして聞こえのいい正義の否定だ。

言うまでもなく、この世で最も恐ろしいものは人間の正義である。それは人間の正義と悪のどちらが多く人を殺してきたかを考えれば、すぐにわかる。そして、理性と科学がこの世の正義になる時、世界には抗うことができない絶望が現れる。

風の谷のナウシカは、それでも闇を背負うことを決め、絶望に屈しなかった少女の物語である。



ところで、ナウシカには、私が特別に好きなシーンがある。ナウシカが、キツネリスのテトと初めて出会ったシーンだ。

警戒して興奮しているテトに、「怯えていただけなんだよね」と、ナウシカは自分の手を差し出す。テトに指をかまれても、動じることなくそのままにする。やがて、テトはナウシカが敵ではないことを知り、かむのをやめて傷口を癒す。

私は昔から、この場面に憧れを感じている。相手のかみつきを受け入れて、耐える。人の強さは、どれだけ相手を許し、認められるかで決まるものだろう。ナウシカは多くの生命を許し、肯定することができる。

私たち人間は、誰かに認められることで初めて自立できる。他人にかみつき、他人を傷つけて、それでも自分の存在を認めてくれる人がいるという安心感が、人を成長させる。私たちとテトは、本質的に何も変わらない。

人の正義を否定すること。人の弱さを肯定すること。彼方憧れの人ナウシカが進んだ道は、簡単に歩めるものでも、出口が見えるものでもなかった。しかし、ナウシカが進んだ「道そのもの」は、今、私に見えるようになった。それは、葛藤を抱えながら私が進む道でもある。

2009.02.08 _
非属の才能 (光文社新書)今日、卒業文集のクラスページに寄せ書きを書きました。約30人の「みんなアリガト!」「1年間、楽しかったよ!」なんていう「ポジティブ&感謝」コメントの嵐の中、私が書いたコメントは、「和して属さず」。

華やかなクラスページのトーンを落とし、完全に"浮いている""説教くさい"そのコメントは、担任、敢えての空気読まず。

そんな一言を唐突に言われても訳がわからないだろうし、「個人の独立と集団の和を、卒業しても大切に。」っていう補足があったとしても、慰めにもなりやしなぃ。でもね、それ私の「座右の銘」だから許してください。

出展は、エントリートップの本「非属の才能」と、孔子の言葉「和して同ぜず」。2つを足して「和して属さず」。中高の時、「周りと同じじゃない感じ方」に不安で、「周りと同じ感じ方」に憧れてた自分に送りたい言葉でもあります。

集団に協調はしても、精神的追従をすることはない。人の集まりに価値を置きながらも、個の独立は決して譲らない。この一見相反するテーマを、人間は矛盾せずに身に宿せることを、同じような悩み方をしている生徒に言ってあげたい。

そういう思いで教員やってるんだけど、残念ながら、そういう人生訓は今の所、あまり需要がないようです。もしあれば、いつでも聞いて。

答える準備はしてあります。

(関連)
和をもって属さず - 書評 - 非属の才能

(関連エントリー:『和而不属』)

今年の卒業文集のクラスページに私が書いた言葉は、「和して属さず」でした。もちろん、孔子の「和して同ぜず」から引用した表現です。

2500年前に論語に書かれた「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」には、「優れた人は、他人と調和し争いを避けようとするが、他人にむやみに同調することはない。しかし、つまらない人は、自分の考えを持たず右往左往するだけで、全体の調和を考えることはない。」という意味があります。

もちろん、みんなには「和して同ぜず」を貫く人になってほしいと思っています。さらに、「和して属さず」としたのは、「人間にとって、社会の中での自分の居場所は一つとは限らない」ということを伝えたかったから。

個人が「属さず」、しかし集団と「和する」ことで、私たちは個人と集団のどちらをも尊重した社会を作れると信じているからです。

中学卒業おめでとう。そして、高校3年間を通して、さらに成長した君たちに会えることを期待しています。


2009.01.27 _
もともと、自分の人生観に結婚はなかったんだけど、結婚したら人生に大きな一区切りがついた気がしています。で、安心したのか何なのか、一人じゃないっていうプレッシャーなのか、「この先」のことを考えることが多くなりました。自分が80歳まで生きる意味って、何?

「生きる意味って何?」という質問は、よく耳にします。自分が聞いたり、他人から聞かれたり。物語のテーマになることも多いですよね。君たち10代の思春期の悩みであることはもちろんのこと、大人になったって自問して迷う人はたくさんいます。



私の場合、他人にそれを聞かれると、よく「人生に意味なんてない。そして、ないからこそ自分で意味を決められる。」と答えます。間違ってはないと思うし、実際そうだと思います。でも、その問いが自分に向かうと、逃げられなくなるんだよね。「じゃぁ、あなたが決めた意味は何?」って。

「自分が成長することに充実感を感じるから、自分が成長することが人生の目的だな。」とか。「自分の思想や、自分が存在したことを、言葉にして残すことに意味を感じるから、自分を残すことが人生の目的だ。」とか。「自分が大切に感じる人との関係性の中に、自分が生きる意味はある。」とか。色々考えては、言葉にしてます。

何でもいいんだよね、生きる意味は。「生きていること自体に意味がある」、なんてのもありだし。何よりも「自分で決める」ことが大切なんだと思います。「主体性があることが、人が生きているということだ」、とかね。

2008.09.30 _