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今さらですが、「sakusaku」がおもろい。

サクサクというか、「黒幕」のしゃべりがおもしろいんだけどね。「テレビ神奈川は見ないだろ」と思って、チャンネルの設定をスキップにして、自分のザッピングに引っかからなかったから、ほとんど見てなかったんだよね。おもしろいのに。

かといって、わざわざ見ることはないんですが、ザッピング中に引っかかったら見ることが多くなりました。あのローカル感と意味のない話を聞けるのは、心の余裕ができたから、なのかもしれない。

フリートークであそこまでキレがある人は、そんなにいないよ。トークがおもしろいって、「知識」の多さ、「切り返し」の早さ、「語彙」の新鮮さ、かなと思います。黒幕すげー。

昔のを見ると、カエラちゃん時代のは、もっとおもしろい。カエラちゃんの「ダルさ」 「強気さ」と、黒幕はめちゃくちゃ合う。中村優も、だんだん自分の立ち位置を確立してきたからOKだけどね。これからもがんばれsakusaku。

2007.09.25 _
ジャマイカのパウエルが100mで世界新。9秒74、さすがに速い。

私も昨日、体育祭のリレーで120m走りましたが、速く走るためのポイントは何でしょうか。

私が昨日、気をつけたのは、「全身のリラックス」「背筋を伸ばす」「つま先の力み」。まず「リラックス」は、全てのスポーツの基本ですね。弛緩と緊張の振り幅が大きいほど、瞬間の反発力が大きくなります。

「背筋を伸ばす」は、前かがみにならないということです。ハードルの為末の『日本人の足を速くする』という本を読んだんですが、そこには「倒れようとして足を出す感じ」がいいと書いてあったので、やろうとしたら、ただの前傾姿勢になって、パワーをロスしてしまいました。私には合ってないポイントだったので、不採用。で、基本に戻って「背筋を伸ばす」。

「つま先の力み」は、かかとから着地してパワーを受け止め、つま先で地面を「つかみ」、「蹴る」ということです。この一瞬の力みが大きなパワーを生み出します。

ということで、自分としてはまぁまぁな走りができたかな、と。100m何秒で走れるんだろ。

2007.09.10 _
英文法をこわす―感覚による再構築 (NHKブックス)

項目『大西泰斗』、Wikipedia (9/6時点) に書いた記事↓

イメージ
大西が当初から目指しているものは、イメージによる英文法の再構築である。大西以前の英文法書は、規則羅列型、文法ミス指摘型が主であり、大西はそれらを機械的、パッチワーク的と批判した。イメージとは、記号に付随する心象のことを指し、大西の著作には、本人が描いたイメージを説明するための絵が多く載っている。イメージは後に、フィール、身体感覚、と言い換えられ発展していく。

身体感覚
大西は単語や文のパターンに付随するイメージを明らかにしたが、革新的なのはそれだけではない。大西は英語も日本語も、使っているのは同じ人間であるという点に着目した。英語と日本語の外観の違いではなく、人間の身体感覚という内側から両言語を考察し、その共通性を示した。大西によって英文法は、英語を分析するための手段から、英語を生産するための手段に生まれ変わった。

英語教育
大西は一般向けの講演会も行っており、教育の理論だけではなく、現場でもその力を発揮する。講演は、出演しているテレビを見てもわかるようにハートフルであり、講義力を兼ね備えた専門家というのは他に類を見ない。メカニカルな規則を網羅、暗記させる英語教育に異を唱え、その不合理への憤りが英語教育を変えようとする原動力になっている。


大学生の頃、私は大西先生に救われました。

私には大西先生が伝えたかったことを、伝える義務があると思っています。

2007.09.07 _
ある掲示板に書き込んだ記事。

仕事柄、「わかる」とか「教える」ってどういう事だろう、と考えてしまいます。探すという意志がなければ、わかるにはたどり着かない。違和感を感じる感度がなければ、探すという意志も生まれない。

結局、感度の高さ低さで、世界の奥行きが決まるのではないか。ならば、人は、他人の感度にどれくらい影響を与えられるのだろうか。

まぁ、そう考えるのも不遜なことで、誰かが必要に迫られ何かを探している時に、その人のために明かりを灯すことができたら、それで十分なのかもしれませんけどね。普通の人は。



、、これだけじゃ、流れがわからんな。

2007.09.06 _
以下は、2回目の北海道の修学旅行の時に、文集に書いたもの。

 私は、無批判な自然賛美は好きではない。普段、都会で不自由のない生活をしながら、一時、田舎を訪れただけで「自然を大切にしよう」と言うことには、ためらいを感じる。その意味では、私が北海道で体験した然別湖のナイトウォッチングも、十勝川のラフティングも、実際の自然の厳しさからはほど遠い、表面だけの自然観光だったかもしれない。しかし、そのどちらの体験も、自然とは、人間とは、を私に考え直させるには十分だった。

 ナイトウォッチングでは、ホテル以外に人工物は何もない湖の周辺で、その光さえ届かない山奥に行き、「光も音もない暗闇の世界」を知る。ラフティングでは、雨で水量と速度を増した十勝川で、強大な川の流れと格闘し、「自然の力が支配する世界」を知る。私は「人間は小さい」ということを再び確認した。

 文明から離れ、自然の中に身を置くと、人間は「余分なものに囲まれて生きている」ということがわかる。見栄や虚栄心、常識や社会通念、「もともと無かったものに振り回されて生きている」ということがわかる。もちろん、文明を捨てて自然の中で暮らそう、と言っているのではない。人間社会の多くのものは、「もともとは無かったもの」ということを、私たちは知っている必要があるということだ。

 広大な空、広大な川と向き合うと、人一人の悩みなんて無いに等しいものだと感じるだろう。現代人の過剰な悩みは、目の前の文明社会や人間関係が、世の中の全てだと思うことから始まっている。

 「自分の存在なんて小さいものだ」そういう正しい認識があれば、存在の小ささを気に病み、自分の存在を確かめるために他人を犠牲にする、といった無理解な行為もなくなる。「勘違いするな。きみの存在なんてちっぽけなものだ。」自然は率直にそう言ってくれる。それが自然の役目だ。今回、私はそう感じたのである。

 私にとって北海道は、人と自然についてもう一度考えさせられた、意味のある場所だった。あなたにとっての北海道はどうだっただろうか。


以上。

2007.09.06 _
1年目、わけもわからない内に、修学旅行を引率した時の感想文です。話が抽象的すぎて、旅の様子が全然わかりません笑。余裕がなかったんですね。

北海道の思い出はたくさんあるが、今回は、旅一般について話してみたい。

旅とは、遠い所に行くことではない。慣れ親しんだ日常の生活を離れ、非日常の中に身を置くこと。それが旅だ。「いつもと違う」という事実は、それだけで私たちの気分を高揚させる。勉強のことを忘れ、部活のことを忘れ、布団に入ったら明日の訪問地に思いをはせる。旅には日常を持ちこまないことだ。非日常であればあるほど、それはいい旅になる。

自分の常識が通用しない、見知らぬ場所に行くことは、不安と緊張を強いられる。しかい、その「わからない」という恐怖心も、私たちの「新しい」を求める好奇心に勝つことはできない。昔から、人は旅に憧れ、旅をしてきた。

だが、私たちがどんなに旅を愛していても、いつまでも続くとしたらどうだろうか。家に帰ってホッとつくため息は、無事に日常に戻ってこれたという安堵感。いつもの場所でいつもの時間が流れる、そんな日常があってこその非日常。旅は終わるからこそいい。

旅から戻ってくると、永遠にも思えていた「終わりなき日常」は、自分をかたち作っていた「かけがえのない日常」だったとわかる。変わらない毎日を、退屈であると嘆く必要はない。旅に出ればいい。そうすれば、私たちは日常の意味をもう一度取り戻せるだろう。


評論家の宮台が言ってた「終わりなき日常」ってキーワードが、当時、頭に引っかかってたんですね。自分の思考がフィルターになって現象を切り出し、その切り取った側面が文章という形になって現れる。昔に書いた文章を読むのも楽しいものです。

2007.09.06 _
以下も、何かの文集に載せた記事。働いてから1年後です。

ここで働かせてもらうようになって、約1年が過ぎました。1年たって気がついたことは、私と生徒との間には確実に「溝」がある、ということです。〜中略〜様々な場面で、こういった「溝」を感じ、時にその幅に呆然としながら過ごしてきました。今振り返っても、対応しきれず、様々な失敗をしてしまったこと思い出します。〜中略〜

「隔絶した溝」を埋める作業。人が人と「つながる」ためには、お互いの妥協点を見つけなくてはならない。これから教師をやっていく上で、避けては通れない、最大限の努力を必要するところだろうと思います。

現実からほど遠い理想論を言っても、それは何も言っていないのと同じ。現実を見据えながら、理想に近づく道筋を考えなければならない。理想と現実の均衡点を見つけ、そこから理想に傾くように少しずつ「重み」をかける、ということ。頭ではわかっていますが、できるかどうか、でしょうか。来年は、リベンジです。

1年目はかなり苦労してました。考え込んで、ボーっとしている時間も多かった。。この記事は、あの頃の苦い体験を思い出させます。

2007.09.06 _
いくつか、昔に書いた記事を載せておきます。ログってことで。以下は、働き出してまもなく、文集のために書いた原稿です。

この学校で先生になって3ヶ月。「先に生まれた」と言うからには何かを知っていなくてはならず、「教える師」と言うからには何かを教える存在なのだろう。私は、何を教えることができるのだろうか。

高校の時の思い出がある。ある先生の話だ。その先生は、バレーボールで鍛えた頑強な身体と、鬼とにらみ合っても勝負できる面容を持ち、上の階にまで聞こえてくるその怒声は、学校中に恐れられていた。

高校2年生、私は幸運にも、そのスパルタ数学教師の授業を受けることになった。問題に答えられなかったら檄が飛び、予習をしてこなかったら活が飛び、かけていたメガネは床にふき飛んだ。

その先生は「生徒のため」と言っていたが、私には理解できなかった。その意に沿って行動することは屈服に思えたし、学校に親を呼び出されたこともあった。

「ムチがあるから従順なのでは、それは人間ではない。」「やれと言われるから、勉強しているんじゃない。」そう思っていたが、私は面と向かって言うことができなかった。そこで意地をはるメリットを感じなかったのかもしれないし、ただ度胸がなかったのかもしれない。いずれにせよ、何も言えないまま卒業することになり、話を聞いてほしい、という思いは叶えられることがなかった。

時は過ぎ、私は先生になった。私が何を教えることができるかは、まだわからない。しかし、少なくとも、みんなの話を聞くことはできると思う。もちろん、私も言う。その時はみんなにも聞いてほしい。人と人が出会い、言葉を通し、体験を通して、お互いの存在を認め合う。そういった対話をすることで、人間は成長できると思うからだ。

出会い、対話し、お互いに成長していこう。私はそういう生き方に魅力を感じるし、そこに私が関われるとしたら、それほど嬉しいことはない。


懐かしいと思うし、原点かなとも思います。初心は忘れないようにしたいですね。

2007.09.06 _
フューチャリスト宣言 (ちくま新書)茂木健一郎と梅田望夫の対談本。これを読んでブログを始めようと。

ネットの世界って、「ローカルかネットか」、「クローズドかオープンか」が大きな分かれ目で、そこがウェブ1.0と、2.0の境界線である、といった話。

遇有性に満ちた、無限に近い可能性がある世界の、その端っこにでもいいから住みたくて。

ここを読み返す日を楽しみに。

2007.09.03 _