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他には、立体アニメの『トトロぴょんぴょん』に驚きました。形が少しずつ違う立体の模型をグルグルまわして、そこにストロボを当てる。そうすると残像が残り、模型がその場で動いているように見える。そんな、目ミヒラキ・口ポカーンの展示物。三次元でアニメができるってのは知りませんでした。

そしてそれは、ずーっと動いているわけではなくて、回転が止まったり光が止まったりして、普通の状態も見せてくれます。で、一定の時間が経つとまた回りだし、光が当てられ動いているように見える。

人形を回しているだけだと、ただ回っているだけなんだけど、そこに一定回数の光を当てることで、命が吹き込まれ、人形が動き出す。「見えなかったもの」が、見方を変えると「見えるようになる」。

この「見えるか見えないか」って、すごく大きなテーマでさ。その立体アニメは、網膜の残像っていう単純な話なんだけど、それだけじゃなくって。例えば、「現実がどう見えるか」ってのは、その人が「現実をどう見ているか」なんだよね。

メイとサツキには「まっくろくろすけ」が見えるし、美術館の子供たちにはロボット兵の足元の紋章が見える。反対に、大人には相手の心がよく見えるし、人と人との関係性がよく見える。

子供が見えるものと、大人が見えるものは違う。人が志向するものによって見える世界は全く違ってくる。そんなテーマを含んでいるように思えた立体アニメでした。子供も大人も必見です。



あとは、超メジャーコンテンツの『でっかいネコバス』。元気盛りのちびっ子たちが、わんさかわんさか。ネコバスの頭に乗ったり、背中から滑り落ちたり。窓から中に飛び込んだり、中からまっくろくろすけを投げつけたり。

それがめちゃくちゃ楽しそうで、自分もネコバスに入りたくって!「ぇえっと、、これは何才までですか?」と聞いたら「小学6年生までです。」と、お姉さんキッパリ。「で〜すよねぇ。僕とか、あの、その、ダメですよねぇ?」って小さい声で言ったら、スルーされました。

「俺の方がうまく遊べるのにッ!」とか意味不明の悔しがり方をしつつ、自分が子供じゃないことに絶望。子供にしかできないことって、、あるんだねぇ。大人になったらできることばかりが増えていくんだと思っていました。あぁ勘違い。

それと、美術館にはオリジナルの15分のショートアニメが6本あって、その中で、目を疑ったタイトルが『めいとこねこバス』。トトロって、まだ続きがあったんだ!と。絵を見ると、一人乗りの小さい子ネコバスにメイが乗ってるっていう、確かに、映画のトトロには出てこないシーン。

その時は上映してなくて、おかげで再び美術館に訪れる義務が発生しました。まぁ、それがなくても2時間じゃ館内を十分に見れなかったし。また来ます。

2009.02.22 _
先週末、『三鷹の森ジブリ美術館』に行ってきました。2001年に開館した当初は、そうとう気合を入れないとチケットが取れなくて、それ以来諦めていたんだけど、最近はもうチケットを取れる状態になっていました。空いていれば、1週間前でも土日のチケットが取れるくらい。嫁が行ってみたいと言い出してくれて良かった。

トトロシュー美術館に行く前に、高井戸の『白髭(しろひげ)のシュークリーム工房』に寄り道。ジブリ公認のお菓子屋さんで、宮崎駿の甥が経営しているそうです。売り場面積が畳3畳くらいの小さい店内は、ナウシカの原画や、ネコバスの時計など、ジブリ風味で彩られ。そこで、「トトロのシュークリーム」や「木の葉のクッキー」をGET。こういうキャラクターものって、味はおいしくないから、全く期待してなかったんだけど、「こ、これは、、(゚Д゚) ウマー!!」。もう一回食べたい1個390円。

16:00時入場のチケットを持って、時間通りに館内に入場。「迷子になろうよ、いっしょに」がテーマのこの美術館には、決められた順路はなく、足が赴くままに館内を巡りました。螺旋階段を上った先の屋上には、原寸大のラピュタのロボット兵。ロボット兵に群がるのは子供たち。写真を撮るのに夢中なのは大人たち。ジブリ美術館は「カメラを向けるのではなく、この空間をご自分の目で見て、体で感じてください。」っていうお願いがあるんだけどね。

ロボット兵の足元には「壊れて落ちたラピュタ王国の紋章」があるんだけど、それを見つけるのは、やっぱり子供たち。それは、子供が見てるのが、ロボット兵という「モノそのもの」だから。大人が関心があるのが、思い出を形に残そうとか、写真を撮って誰かに見せようとか、そういう「モノの周辺」。

物事の表面だけを切り取って、対象とは常に距離をとっていて、それは必要なことだし、それが大人ってことだけど、それしかできないって、悲しいことだよね。宮崎駿が写真を撮ってほしくないってのは、このことなんだな、って実感しました。

2009.02.21 _
風の谷のナウシカ 5 (アニメージュコミックスワイド判)風の谷のナウシカを初めて見たのはテレビだった。生物が死に絶えた灰色の街で始まるオープニングから、オームの大群に身を投じるエンディングまで、私は目を離せなかった。

可憐な少女が空を舞い、巨大なオームを手なずける。蟲にも軍隊にもひるむことなく、ただひたすらに自分の道を行く。強さと優しさを持ち合わせたナウシカは、私の理想のヒロインだった。

小学生の時、寄せ書きで求められた好きな女性のタイプに、ナウシカと書いた。高校生の時、教室に入ってきた羽虫を手で取り、何を気にすることもなく窓から逃がした子に恋をした。

宮崎駿は、ナウシカに堤中納言物語の虫愛ずる姫君を重ねて見ていたという。そんな、何かに束縛されることなく感性のままに自分を動かせる人に、私は心惹かれる。



人間の意志さて、今回は漫画のナウシカの話である。アニメのナウシカは、ナウシカという物語の一部分でしかない。腐海(毒の森)は、大地の有毒物質を結晶化して、無害なものに変える。そして、その腐海を守るために存在するオームと蟲たち。アニメで描かれているのはここまでだ。しかし、話には続きがある。

旅の途中、ナウシカは、人間の体が腐海の毒に合わせて作り変えられ、その体では浄化された後の世界では生きられないことを知る。そして、腐海の浄化システムは自然に生まれたものではなく、旧世界の人間が作り出したものであることに気づき始める。

闇の中の光ナウシカは、隠された事実を確かめるために、墓所の奥深く、不死の生命「墓所の主」と対峙する。

ナウシカ:「なぜ真実を語らない。汚染した大地と生物を全て取りかえる計画なのだと!」

墓所の主:「清浄な世界が回復した時、汚染に適応した人間を元に戻す技術もここに記されてある。交代はゆるやかに行われるはずだ。永い浄化の時は過ぎ去り、人類はおだやかな種族として新たな世界の一部となるだろう。」

ナウシカ:「絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない。その人達はなぜ気づかなかったのだろう。清浄と汚濁こそ生命だということに。」

墓所の主:「人類は私なしには亡びる。お前達はその朝をこえることはできない。お前は危険な闇だ。生命は光だ。」

ナウシカ:「ちがう!いのちは闇の中のまたたく光だ!」

ナウシカは、墓所の主の言い分に惑わされることはなかった。自らが名を与えた巨神兵オーマを呼び、墓所を破壊する。

その時、ナウシカは、清浄な世界に戻った時の人間の卵を見つける。凶暴性がなく、おだやかで賢い人間になるはずの卵である。ナウシカが予感した通り、人間を含めた今の生態系は、完全に滅ぼされる予定だった。

すべてを無に帰し、墓所の血を浴びたナウシカの服は、オームの血よりも青かった。「オームの体液と墓のそれが同じだった」ことは自分の胸の内にしまい、星にすべてを託して生きることを心に決め、物語は幕を閉じる。



風の谷のナウシカ 6 (アニメージュコミックスワイド判)読み終えた後、私はこの物語を消化できないでいた。確信のない不安な思いは、しばらく消えることはなかった。これで良かったのだろうかという疑念が私を覆い、気持ちは晴れなかった。

当時、私は墓所の主を完全に否定することができなかった。すべてを破壊すると決めたナウシカは、感情的になっているだけなのではないか、とも思った。

墓所の主が言うことには理屈があると思ったし、科学なしに人類を救えるとも思えなかった。巨神兵が人間の卵をつぶした時、今でも覚えているが、私はもったいないと感じてしまった。

世界を憂う思いは、時に、人を極端へと走らせる。私も、世界を変える起死回生の何かを期待していたのかもしれない。

ナウシカは、私が当然と信じて疑わなかった理性と科学を否定した。墓所の主の正義を否定し、そして、悪を引き受けた。私には、その覚悟がなかったのだろう。

風の谷のナウシカは、単なる自然賛美の物語ではない。物語に流れているのは、理性と科学、そして聞こえのいい正義の否定だ。

言うまでもなく、この世で最も恐ろしいものは人間の正義である。それは人間の正義と悪のどちらが多く人を殺してきたかを考えれば、すぐにわかる。そして、理性と科学がこの世の正義になる時、世界には抗うことができない絶望が現れる。

風の谷のナウシカは、それでも闇を背負うことを決め、絶望に屈しなかった少女の物語である。



ところで、ナウシカには、私が特別に好きなシーンがある。ナウシカが、キツネリスのテトと初めて出会ったシーンだ。

警戒して興奮しているテトに、「怯えていただけなんだよね」と、ナウシカは自分の手を差し出す。テトに指をかまれても、動じることなくそのままにする。やがて、テトはナウシカが敵ではないことを知り、かむのをやめて傷口を癒す。

私は昔から、この場面に憧れを感じている。相手のかみつきを受け入れて、耐える。人の強さは、どれだけ相手を許し、認められるかで決まるものだろう。ナウシカは多くの生命を許し、肯定することができる。

私たち人間は、誰かに認められることで初めて自立できる。他人にかみつき、他人を傷つけて、それでも自分の存在を認めてくれる人がいるという安心感が、人を成長させる。私たちとテトは、本質的に何も変わらない。

人の正義を否定すること。人の弱さを肯定すること。彼方憧れの人ナウシカが進んだ道は、簡単に歩めるものでも、出口が見えるものでもなかった。しかし、ナウシカが進んだ「道そのもの」は、今、私に見えるようになった。それは、葛藤を抱えながら私が進む道でもある。

2009.02.08 _
ブログの右下に、『Books』を設置しました。

思い出深い本から、最近読んだ本までのラインナップ。言語、英語、教育と、思想にマンガ。ジャンル問わずのマイフェイバリット。

気が向いたら書評を書きます。あ、半年前に書いたナウシカの原稿、載せようかな。

(追記)
関係する記事を書いた本には、「記事へ」と表記して、リンクを張りました。

2009.02.05 _
さっき、「拍手」を通して、久しぶりにコメントがついていることに気づきました。「和して属さず」のエントリー宛。誰かわからないけど、いい意見だから、ここに返信します。勝手に取り上げて申し訳ない。

こういうのってブログとかに書くんじゃなくて直接言ったほうが伝わると思うんだけど。


確かに。万人に伝えたいと思っていることなら、教室で言ってるかも。

集団の中でどれだけ合わせられるかで友達の数とか決まってくるものじゃない?


そう。多数に当てはまることじゃないとも感じていて、だからみんなの前で言うことに抵抗があって。

難しい言葉ばっか使うから皆は先生の言いたいことが分からないんだよ。


うん、私は自分の思っていることをなるべく正確に表現したいし、かつ、それを読む人にわかってもらいたい。誰でもわかる簡単な表現は、その人のわかる範囲で簡単に読まれてしまうから、それだけ誤解の余地が大きくなるもの。だから、聞きなれない表現が多くなってしまうのかも。

自分を表現することと、相手から理解されること。この2つが成り立てば、自分は幸せかなという気がしています。自分にとっての最高峰のテーマだけに、簡単な言葉ばかりを使うわけにはいかないかな。

「わかってほしいけど、わからなかったら仕方がない。」そんな揺れる男心をわかってちょーだい。

(追記)
別の人からもコメントもらいました。

先生のおっしゃってる事は、中学生の私には難しいんですけど、私なりに考えてみました。自分の考えに自信を持って「これくらいなら相手に譲れると思ったところは引き、この考えは変えられないと思った所は通す。例えそれでみんなに変だよと言われてもこれが私なんだからと思って生きていく」と、いう信念を私は持っているつもりです


うん、いいね。好きなのが「私なりに考えてみました。」ってとこ。私も、別に「答え」を書いているわけではなくて、「私なりに考えた」ことを書いているだけだから。そして、「わかる」ってことは、相手の言葉を、身の丈に合った「自分の言葉」を使って置き換えることだとも思います。

2009.02.05 _

「私は不幸な女の子」…“ぶりっ子”狙って傷害(2009.1.21)
「幸せそうな女の子を見るとむかつく」と、小中学生を殴ってけがを負わせたとして、警視庁少年事件課と八王子署は傷害の疑いで、いずれも東京都八王子市の市立中学3年の女子生徒(14)と同級生(15)の2人を逮捕した。(略)
 12月11日午後8時ごろには、同市旭町のJR八王子駅近くの路上で、通りかかった塾帰りの私立中学1年の女子生徒(13)に声をかけ、ビルのトイレに連れ込んで頭や顔を殴るなどして、重傷を負わせた疑い。(略)
 「私立の制服を着ていた」「かわいい服を着ていた」「話し方がぶりっ子で、親に愛されている気がした」などの理由で、女児らに暴行を加えていた。被害者側が警察に届け出たため、犯行が発覚した。
 調べに対して「私の家は母子家庭」「父に虐待されて育った不幸な女の子だ。だから、金持ちそうな態度を取るヤツが許せない」「ぶりっ子や幸せそうな女の子を見るとむかつくので暴力をふるった」などと供述しているという。


最近、うちの学校の生徒も、下校の時に嫌がらせを受けてます。引用した記事ほど深刻ではないけど、精神的にイヤな思いをした子はたくさん。加害者は、スウェットにキティーちゃんのサンダル(キティサンと言うらしい)というお決まりの服装をした女子中学2,3年生。私も駅に出向いて、その子たち2人と話したことがあります。

駅事務所のソファーに寄りかかり、携帯をいじりながらわめき散らす彼女たちは、私が口の利き方を一喝しても全く恐れる様子がなく。「警察なんて関係ないねぇ」「どこにだって行ってやる」と啖呵を切る2人は、説得が通じるような相手ではないと感じてしまいました。夜回り先生なら、うまいこと彼女たちを導けたのかもしれないけど、残念ながら私にそんな技術や貫禄があるわけもなく。

かわいそう子たちなんだよね。それはね、わかる。小さい子をいじめて優越感を持ちたいし、大人にも怒られたいし構ってほしい。「親に愛されている気がするから、あいつらは腹立たしい」と、感じてしまう。

でもね、弱い相手を攻撃して自分の気を晴らしても、情けないでしょ。自分の不幸を持ち出して正当化しても、誰も許さないでしょ。

確かに人は、他人と比較しなければ自分のことはよく見えません。でも、そうやって他人と比べることから、自分の不幸が始まっていることを、彼女たちはわからなければならない。

他人と比べて自分を見ることを卒業できなければ、一生そうやって苦しむしかない。自分を不幸だと決めているのは、自分しかいないから。

中学生の彼女だちがそれをわかるまでは、残念ながら、もう少し時間がかかるかるのかもしれません。

2009.02.04 _