大西先生のブログは読んでるんだけど、掲示板からは遠ざかってたので、読むべき話を読み逃していました。備忘&紹介としてログを残します。(太字・改行はログ保管者による)
投稿者名:大西泰斗 タイトル: だんだん
いろんな意見が出てきましたね。少しずつ考えているところを。
割り箸、二酸化炭素。温暖化。どれをとっても現実には多くの意見があり、「割り箸を使わない」に私は賛成できかねますし、二酸化炭素が温暖化の引き金になっているという意見にも両手を挙げて賛成というわけではありません。世間で事実と「言われている」ことと、客観的事実の間には、一般的に大きな開きがあります。
私が学生に身につけさせたいのは、自然を相手にする力です。「割り箸」「二酸化炭素」。それはすでに二次的な加工物にすぎません。生のデータを扱い、そこから正しさや幸せをつかみ取る独創性ということでもあります。ミミロップさんのかわいいお子さんに、僕だったら何を伝えるだろうと考えると、バイアスのかかった結論ではなく、モノをみる見方。自然への処し方以外にないような気がします。
投稿者名:大西泰斗 タイトル: だんだん2
おくさんの選択肢の1つ、「実社会を意識した(負の面も含めて)トレーニングの場(が教育)」に関しても、僕は違和感を感じています。現実の社会や会社組織、仕事上のルーティーンは、すべて二次加工物です。私には、そうしたものに適応するための訓練が教育の本質だとは思えません。
教育とは常に、「今にないモノ」に放たれた好奇心の矢であると思います。気の利いたビジネスマンや株式投資がうまい新入社員はいくらでもいますし、代替可能です。未来を切り開く人々はそうした既存の枠組みへの適合を目標とした教育からは生まれてこない。私はそう思います。
投稿者名:大西泰斗 タイトル: ありがと
>にゃんこさん
割り箸問題、私がことば足らずのところをありがとうございました。「自然—->人間が手をつけない」、こうしたわかりやすいスローガンも実は客観的に事実を精査して見なければ正しい方策には結びつかないということは、たいへんよくあることだと思います。スーパーのレジ袋しかり。二酸化炭素は、僕より算数Kさんの方が詳しいかな。
データを精査し、小さな疑問を掘り下げる。そして全体像を理解する。ミミロップさんのお子さんはいい方向に進んでいますね。その営みが創造力として大きく実を結ぶのは、数学・国語を初めとした基礎的な教育の積み重ねに支えられたときであると思います。「どう」数学を教えるのか。「どう」国語を教えるのか。こうしたことは今まであまり(私たち一般の)議論に上ったことはないように思います。
投稿者名:大西泰斗 タイトル: 同様に
「英語を日本人が全員話せたらいいな」、という誰もが受け入れやすいスローガンに誤謬はないのか、を私は最近考えていたりします。
良いアイデアがあったら、教えてくださいね。経済の専門家にも意見をきいてみたいところです。
投稿者名:大西泰斗 タイトル: うん。
>ミミロップさん
日本の割り箸は間伐材でつくられるから豊かな森作りに発展する。
中国の割り箸は皆伐方式でつくられるから森林破壊に発展する。
日本の割り箸のほとんどは中国から輸入されている。
ここから出てくる帰結は、「輸入から国内産業にシフトする」ですね。するとコストをどこで吸収するのか、どのように安い割り箸の輸入を制限するのか、などいろいろ解決策は分岐していくことになるでしょう。
あるいは安いから海外依存でいいのかという問いかけにもなるでしょう。数多ある情報から自分の足で立つと言うこと。それは、新聞を読むこと(だけ)でもなくネットで情報を拾うこと(だけ)でもなく、最終的に自分で考え抜いて判断を加える力をもつことです。
ま、そーゆーこどもに育ってほしーけど、親としてできることはあんまりないよねー。「自分でがんばれ」くらいかなー。僕がいつもいうのは「それは聞きかじりだよね。自分で考えてごらん」ということだけです。
投稿者名:大西泰斗 タイトル:これからの英語教育4
英語教育も同じです。「英語話せてグローバル」で話がとまることは、四方山話なら許されることであっても、次世代の子供達の幸せを考えた場合、許されません。問題ははるかに複雑に分岐するのです。思わぬ不幸な事態も招来するかもしれません。たとえば、
私がビジネスエリートとよく話題にするのは「英語を話せるようになるということは、国を開くということだ」ということです。日本は海だけでなく、ことばのうえでも守られているということです。英語ネイティブが日本語を学習するのはアラビア語並にむずかしいことです。それは、交流を阻害します。そしてそれは悪いことばかりでなく国の雇用と産業を守る独自の「非関税障壁」にもなっているのです。労働者・グローバル企業の参入をむずかしくしているから。
アメリカで、特にCAでは、熟練や資格を必要としないマクドナルドの売り子などの労働者は、ヒスパニック系が支配的です。彼らの安価な労働力に経済全体が依存しているのです。そのことの是非はともかく、日本人の誰もがカンタンな日常会話力を持った場合、安価な外国人労働者が今よりもはるかに増大することになります。日本語でなく簡単な英語で仕事ができるなら、誰でもできるということですから。そしてそれは、行政コストの飛躍的増大と日本人の雇用減少を意味します。
シンガポールのような国を英語教育のモデルとする方も多く見られます。ですが、その議論で支配的なのは「英語が話せればグローバル」であり、決定的に脱落しているのは、「英語」を私たち全員の幸福という角度から見るということです。外に目を向けなくては経済が維持できない国と、十分な国力と人口を有する国の言語政策を十把一絡げに論じることはできません。
「英語ができたらグローバル」、短絡的な標語が押し隠していることは多々あるのだと私は思っています。それなら自分には何ができるか、をいつも考えています。
投稿者名:大西泰斗 タイトル: はは。
もちろん、他にもさまざまなファクターは絡みます。「英語ー高校英語」は一国の言語政策ですからね。大切なのは、短絡的なスローガンではなく、さまざまな思考実験と論証を重ねたうえで決定すべきだと言うことです。私が書いたことも結論ではなく、単なる1つの思考実験に過ぎません。英語教育に携わる人間だけでなく、さまざまな分野の叡智を集めて作戦会議をすることが大切だと思っています。
投稿者名:大西泰斗 タイトル: はは。
「危惧」が生まれるのは、どこかでボタンのかけ違いをしているように思えるからでしょうね。おそらく「文法」についての考え方が奇妙なのですよ。
(a) 会話はブロークンで文法気にしなくていい。積極的にやってください。
(a’) 英作文や読解はいつものように文法気にしてくださいね
(a) と同時に(a’) が感じられるから「解釈の違いによってバラつきが出てくるんじゃないか」となり、全体としての方向性が見えないのです。
「文法」を現状から動かないと考えていることから、このちぐはぐは生まれます。「実践的なコミュニケーション」の邪魔にならず、同時に英作文・読解の素地となる「文法」を作ればいいだけのことです。「文法はいらない」「英語は「勉強」しなくていい」などの極論が生まれる素地は、「文法」を固定して考える怠惰から生まれていると私は思います。
投稿者名:大西泰斗 タイトル: うん。
>おくだんなさん
問題は「文法・語句をきめ細かに」が、「どのように」きめ細かいのか、ということになりそうですね。会話に使えない形できめ細やかになっているのではないか、ということです。それは同時に英作文でも解釈でも使えないきめ細やかさなんですよ。
今僕が懸命にやっていることは、ムダなきめ細やかさを排除して、必要なきめ細やかさを補足するということです。いち教員としてやらなければならないことはたくさんあるように思います。
投稿者名:大西泰斗 タイトル: ことばの先にあるもの
は、おそらく明確な目標設定です。一般的な日本人の人生を考えたときに、英語学習にかけていい時間の総量。どのレベルまでのトレーニングが必要なのか。どの項目はその後の自助努力に任せるべきかの裁量です。たとえば「ifのない仮定法」と呼ばれる形—-Had I known… などですが—-この形は、最近読んだ750ページのペーパーバックで1文にしかでてきませんし、僕が自分で使うときも Should you wish … くらいでしょうか—-こうした滅多に出てこない特殊な形を残すのかどうか。…まぁ「退場」でしょうね。はは。
学校英語は、ネイティブがほぼ使わないような文を解説する場ではありません。そんなことは限られた時間の無駄遣いです。彼らの常用域にある当たり前の文を当たり前にアウトプットできる、それを目標とすれば整理できる内容は多々あります。
投稿者名:大西泰斗 タイトル: 英語教育
>おくだんなさん
英語教育は問題山積ですね。僕の求めているのは ENGLISH ON DEMANDという理想です。ピザを頼むように、身につけたいときに気軽に英語を身につける方法論を求めています。それができれば英語を学校の正課からはずしてもいいと思っています。英語にはさまざまなファンタジーがまとわりついています。日本人の人生にとっての本来の「価値」を正しく測ることが、英語教育を考える第一歩になるように思えます。
投稿者名:大西泰斗 タイトル: ははは
>Brainさん
この部分は、ネイティブあるいは日本語とのバイリンガルに対する聞き取りです。両方母国語なら文作りの意識のちがいが鮮明になりますからね。
また、状況を文のパターンが規定する以上、そしてパターンが数種類しかなければ、文作りはその選別から入る(=パターンの構築から入る)以外に論理的な方法はない、という結論でもあります。状況を(漠然とでも)浮かべずに口から文を出すことはできませんから。
「脳科学」に関しては、現段階では期待はしていません。逆の ---経験的な分析から脳科学への---貢献はできるように思いますが。
投稿者名:大西泰斗 タイトル: そうですね
公教育としての英語は、ハードルを下げるべきだと思っています。誰も達成したことのないハードル---例外などの微に入り細に穿つ内容は、まるで必要はありません。簡単な仕事のプレゼンもできないのにがox --> oxen! など覚える必要はまるでないのです。私は日常英語を使って生活をしていますが、oxen を書いたことはありませんよ。よしんばoxes と書いても、頭をかいておけばそれでいいのです。このようなムダな完璧主義にとらわれるから、何も表現できないまま、子供たちは英語が嫌いになっていくのです。
意思伝達ができる。英語を気軽に口に出来る。公教育が提供する能力はそれで充分だと思っています。あとは、職業生活の土台となる、他の教科を徹底的に鍛える。一念発起すれば、英語などすぐに身につくシステムさえあれば、それが可能になる。
だからバイエルに執着しているのです。
2009.10.02 _




































