かつて、世界を憂いていた。自分のこともわからず、日本を出たこともないまま、世界と人間を憂いていた。世直しの可能性について考え、人はいつか、お互いにわかりあえると思っていた。あなたと同じ高校生の頃だ。
生物学者のユクスキュルは、生物の種ごとに異なる認識世界を、環世界と呼んだ。アリが見ている世界と、犬が見ている世界と、人が見ている世界は、違う。犬は色の違いを区別できないし、アリは人の高さを理解できない。人も世界の全てを認識できるわけではなく、他の生物に上の次元から見下ろされているかもしれない。生物はそれぞれの感覚器の限界を超えられず、その小さな環の中に住むしかない。
人はさらに、あたかも種が違うかのように、個体によって世界の認識が違う。ある人には明らかなことでも、ある人には意識することさえできない。言語を持ち、1人1人が脳の中に概念化した世界を作るからだ。人は同じ世界に住んでいるようで、違う世界に住んでいる。
世界の断絶を知ること。ここからしか話は始まらない。そして、それは決してネガティブな意味ではない。人と人が共生するには、わかりあうことを諦め、わかりあえないことをわかるしかないからだ。相手の非を決めつけることで差別は生まれ、自分の正義を信じることで争いは起こる。相手がわかってくれないことを嘆かず、自分の世界観を押しつけない。それができて初めて、私たちは本当に他人の独自性を尊重できるようになる。
あなたが学んだ1つの教科は、世界を理解するための1つの仮説である。あなたが過ごした1つの教室は、異世界の人を知る1つの舞台である。私たちが何かを学ぶというのは、他人との断絶を理解してなお、その溝を埋めていこうとすることにある。学ぶことを怖れずに、考えることから逃げない。そうすれば、わからないと距離をとっていたあの人に、1歩でも近づける日が来るかもしれない。
…3年間で、私とあなたとの距離は縮まっただろうか。お互いの心が少しでも動いたとしたら、私たちが出会った意味はある。そして、私との間にあった引力が、これからも残り続けてくれたらと、私はそういう夢を見ている。
生物学者のユクスキュルは、生物の種ごとに異なる認識世界を、環世界と呼んだ。アリが見ている世界と、犬が見ている世界と、人が見ている世界は、違う。犬は色の違いを区別できないし、アリは人の高さを理解できない。人も世界の全てを認識できるわけではなく、他の生物に上の次元から見下ろされているかもしれない。生物はそれぞれの感覚器の限界を超えられず、その小さな環の中に住むしかない。
人はさらに、あたかも種が違うかのように、個体によって世界の認識が違う。ある人には明らかなことでも、ある人には意識することさえできない。言語を持ち、1人1人が脳の中に概念化した世界を作るからだ。人は同じ世界に住んでいるようで、違う世界に住んでいる。
世界の断絶を知ること。ここからしか話は始まらない。そして、それは決してネガティブな意味ではない。人と人が共生するには、わかりあうことを諦め、わかりあえないことをわかるしかないからだ。相手の非を決めつけることで差別は生まれ、自分の正義を信じることで争いは起こる。相手がわかってくれないことを嘆かず、自分の世界観を押しつけない。それができて初めて、私たちは本当に他人の独自性を尊重できるようになる。
あなたが学んだ1つの教科は、世界を理解するための1つの仮説である。あなたが過ごした1つの教室は、異世界の人を知る1つの舞台である。私たちが何かを学ぶというのは、他人との断絶を理解してなお、その溝を埋めていこうとすることにある。学ぶことを怖れずに、考えることから逃げない。そうすれば、わからないと距離をとっていたあの人に、1歩でも近づける日が来るかもしれない。
…3年間で、私とあなたとの距離は縮まっただろうか。お互いの心が少しでも動いたとしたら、私たちが出会った意味はある。そして、私との間にあった引力が、これからも残り続けてくれたらと、私はそういう夢を見ている。
2008.02.29 _




































