「生きる意味って何?」という質問は、よく耳にします。自分が聞いたり、他人から聞かれたり。物語のテーマになることも多いですよね。君たち10代の思春期の悩みであることはもちろんのこと、大人になったって自問して迷う人はたくさんいます。
私の場合、他人にそれを聞かれると、よく「人生に意味なんてない。そして、ないからこそ自分で意味を決められる。」と答えます。間違ってはないと思うし、実際そうだと思います。でも、その問いが自分に向かうと、逃げられなくなるんだよね。「じゃぁ、あなたが決めた意味は何?」って。
「自分が成長することに充実感を感じるから、自分が成長することが人生の目的だな。」とか。「自分の思想や、自分が存在したことを、言葉にして残すことに意味を感じるから、自分を残すことが人生の目的だ。」とか。「自分が大切に感じる人との関係性の中に、自分が生きる意味はある。」とか。色々考えては、言葉にしてます。
何でもいいんだよね、生きる意味は。「生きていること自体に意味がある」、なんてのもありだし。何よりも「自分で決める」ことが大切なんだと思います。「主体性があることが、人が生きているということだ」、とかね。
思ったんだけど、やっぱり人って「他人を信じたい」んだよね。なんでかって言うと、他人を信じると「楽だから」。他人を信じれば、自分は安心感を手に入れられるし、何かが起きても他人のせいにできる。人間は、ある思想を「理屈」で選ぶんじゃなくって、自分がそう思いたいものを、「感情」で選ぶからね。自分にとって不都合なことや、目を背けて、考えたくないことって、みんな持ってると思うから。
もちろん「人を見たら泥棒と思え」ってのは困るんだけど、やみくもに他人を信じろって教えるのは、無責任だと思うんです。盲目的に他人を信じたら、被害にあうのは自分だから。
その後で、できることといったら「○○のことを信じてたのに。。」と言ってみせるくらい。信じたら裏切られるし、期待したら失望する。それが人の心理だし、世の真理。
そういうのをわかった上で、相手を信じるってのは「自分が責任を取れる範囲」でなきゃ、ダメだと思うわけです。裏切られても文句を言わない、期待が外れても相手を責めない。それができなきゃ、相手を信じちゃダメでしょ。
相手を信じるというのは、時に、自分の思考停止であって、相手への責任転嫁だよ。それをわかってないと、何でも「相手のせい」にして、自分のことを反省しない人になっちゃうよ、っていう話。
以下、「他人に期待するな」っていう話。
思い切って人に期待することをやめてみた。するとどうだろう、とたんにバラ色の世界がぼくの目の前に広々と開けたのだった。
人に期待しないということを知り、それを実践するだけで、本当に生きるのが楽しく、また豊かになるのだということを、もっと多くの人に伝えることができたらと思う。
:ハックルベリーに会いに行く
他人を簡単に信じない。他人に過剰に期待しない。そうすることで、自分主体の人生が作れるようになるんだと思います。
生物学者のユクスキュルは、生物の種ごとに異なる認識世界を、環世界と呼んだ。アリが見ている世界と、犬が見ている世界と、人が見ている世界は、違う。犬は色の違いを区別できないし、アリは人の高さを理解できない。人も世界の全てを認識できるわけではなく、他の生物に上の次元から見下ろされているかもしれない。生物はそれぞれの感覚器の限界を超えられず、その小さな環の中に住むしかない。
人はさらに、あたかも種が違うかのように、個体によって世界の認識が違う。ある人には明らかなことでも、ある人には意識することさえできない。言語を持ち、1人1人が脳の中に概念化した世界を作るからだ。人は同じ世界に住んでいるようで、違う世界に住んでいる。
世界の断絶を知ること。ここからしか話は始まらない。そして、それは決してネガティブな意味ではない。人と人が共生するには、わかりあうことを諦め、わかりあえないことをわかるしかないからだ。相手の非を決めつけることで差別は生まれ、自分の正義を信じることで争いは起こる。相手がわかってくれないことを嘆かず、自分の世界観を押しつけない。それができて初めて、私たちは本当に他人の独自性を尊重できるようになる。
あなたが学んだ1つの教科は、世界を理解するための1つの仮説である。あなたが過ごした1つの教室は、異世界の人を知る1つの舞台である。私たちが何かを学ぶというのは、他人との断絶を理解してなお、その溝を埋めていこうとすることにある。学ぶことを怖れずに、考えることから逃げない。そうすれば、わからないと距離をとっていたあの人に、1歩でも近づける日が来るかもしれない。
…3年間で、私とあなたとの距離は縮まっただろうか。お互いの心が少しでも動いたとしたら、私たちが出会った意味はある。そして、私との間にあった引力が、これからも残り続けてくれたらと、私はそういう夢を見ている。
この質問って、いつも答えにくい。つい「何でも聴くよ。」って答えてしまうんだけど、相手は私の「文化的な立ち位置」を知りたくて、そう聞くわけであって。。それがわかるから、なるべく、特に聴いてる音楽を答えるようにしています。
でも、本当に何でも聴くんだよね。ジャパニーズPOPも、ブリティッシュROCKも、アニソンも、ヒップホップも。アイドルの歌も聴くし、Mika (クイーンみたいなイギリスのバンド)も聴く。アクエリオン(菅野よう子)も聴くし、Jay-Z(ビヨンセの旦那)も聴く。
基準は一つ。それが自分の心を動かすかどうか。心を動かすメロディなら、ジャンルにこだわるのはもったいないと思います。
音楽って、「音階、リズム、音の重なり」という物理的な基準だけで判断されることは少なくて、「歌う人、言葉、ジャンル」っていう文化的な基準で判断されることが多い。それは、服装と一緒で、どの音楽を身にまとうかが、その人の文化的主張だから。
それが価値あることはわかるんだけど、私は音楽に対してはなるべくフラットでいたい。
「Listen to the music you like.」
「好きな音楽を聴けばいい」っていう意味をこめて、ブログのタイトルを決めました。そしてそれは、既存の社会通念や権威主義には屈しないという、自分の意志の表明でもあります。
自分の立ち位置をわかるには、他人に記事を読んでもらうのも必要だし、自分と同じ考えの記事を見つけると、立ち位置がわかって「心から安心」できたりする。高校生の頃の自分がかわいそうだと思うのは、この点だな、と思います。その頃、インターネットやブログがあれば、自分の立ち位置がわからず、不安に怯えることも少なかっただろうな。
ところで、高校生から、「国語力をつけるには?」「小論文対策は?」って質問されると、「朝日新聞の天声人語を要約しなさい。」ってのが、まぁ昔からの模範解答なんだけど、今なら「1日1個ブログで記事を書きなさい。」かな。文字で、他人に発信する練習をつめば、国語力はつくでしょ。
ニュースを見て、自分が感じたり考えたことを書くというのは、他人が書いた記事の要約にはないダイナミズムと、志向性がある。そこに立ち現れるのは、生きている自己像であり、志向性で編集された自分のための知の集積である。
まぁね、国語力なんて小さな話だけじゃなくって、ブログって、色んな要素がつまってて、生きてる実感を持ちえる、人とのつながりを感じられる、いいツールだなと思います。
今の日本って、何かと満たされているから、簡単に生きれてしまうから、生きる意味を自分で探すか、作らなければならないんだけど、ブログってその一つになりえる。少し前までは、本を出版するとか、映画に出るとか、とてつもなく厚い壁を越えなければ、みんなの心に残るという意味での「証」は残せなかった。でも、ブログができて、ほとんど全員に「心の記録」を残せる道が開けた。これが革命でなくて何なんだ。
ブログの意味なんて言うと、自分が高校生で最も不安定な精神状態の時、学級日誌に自分が考えていたことを書きなぐったことを思い出します。自分の思想を教室のみんなに押し付けてたのか、啓蒙しなければという使命感からなのか、いずれにせよ、教室のみんなには不愉快な思いをさせてしまいました。その時にブログがあったら、ブログに書いて世間に発表してるんだろうな、と。
自分が考えを相手に伝えたい、というのは、人間にとってよっぽど根源的な欲求なんだろうな、と思います。高校生の時は、かなり必死だったからなぁ。そういう意味で、インターネット、ブログって、最高のポテンシャルを秘めた知的ツール。「人の革新」、「ニュータイプ」なんていう富野由悠季のSFも、インターネットの小宇宙で実現するかもしれない、なんて空想は許されますか?
ブログを書くって、何だろ。自分は日記(手書き)を書いたことがないから、1日の記録を残したいというのとは違うし。前は、ホームページと何が違うんだとか思ってたけど、どのパソコンからでも書き込めるというのは大きいね。「ネットにつながる」のが最低条件で、特殊なソフトはいらないし、アクセスの制限もない。梅田望夫が『ウェブ進化論』で言うところの「あちら側」(情報共有インフラ世界)の凄さを実感します。さておき、 ブログを書くって、自分の「頭の整理」という面がある。そこには、考えていることが整理されていく快感がある。言葉ってやっぱり、何かを整理するためにあるんだな、と。そして、その整理した情報を他人と共有することで、ブログは究極の「知的生産ツール」になりうる。知と知の相乗効果、創造的発展を期待することができる。そう考えると、言語を発明して以来、人類の進化もここまで来たか、、と、
いうことで、今日の整理は終わり。
私は、無批判な自然賛美は好きではない。普段、都会で不自由のない生活をしながら、一時、田舎を訪れただけで「自然を大切にしよう」と言うことには、ためらいを感じる。その意味では、私が北海道で体験した然別湖のナイトウォッチングも、十勝川のラフティングも、実際の自然の厳しさからはほど遠い、表面だけの自然観光だったかもしれない。しかし、そのどちらの体験も、自然とは、人間とは、を私に考え直させるには十分だった。
ナイトウォッチングでは、ホテル以外に人工物は何もない湖の周辺で、その光さえ届かない山奥に行き、「光も音もない暗闇の世界」を知る。ラフティングでは、雨で水量と速度を増した十勝川で、強大な川の流れと格闘し、「自然の力が支配する世界」を知る。私は「人間は小さい」ということを再び確認した。
文明から離れ、自然の中に身を置くと、人間は「余分なものに囲まれて生きている」ということがわかる。見栄や虚栄心、常識や社会通念、「もともと無かったものに振り回されて生きている」ということがわかる。もちろん、文明を捨てて自然の中で暮らそう、と言っているのではない。人間社会の多くのものは、「もともとは無かったもの」ということを、私たちは知っている必要があるということだ。
広大な空、広大な川と向き合うと、人一人の悩みなんて無いに等しいものだと感じるだろう。現代人の過剰な悩みは、目の前の文明社会や人間関係が、世の中の全てだと思うことから始まっている。
「自分の存在なんて小さいものだ」そういう正しい認識があれば、存在の小ささを気に病み、自分の存在を確かめるために他人を犠牲にする、といった無理解な行為もなくなる。「勘違いするな。きみの存在なんてちっぽけなものだ。」自然は率直にそう言ってくれる。それが自然の役目だ。今回、私はそう感じたのである。
私にとって北海道は、人と自然についてもう一度考えさせられた、意味のある場所だった。あなたにとっての北海道はどうだっただろうか。
以上。







































